金沢市議会事務局に採用された25歳の高梨小鳥は、議員秘書の近江隆之介(35歳)と一目惚れ。歓送迎会で酔った小鳥を、同じマンションに住む隆之介が介抱するが、一夜を共にしてしまう。互いに惹かれ合いながら、小鳥は彼を探し、隆之介は関係を隠そうとする、焦れったい両片思いのラブストーリー。
View More桜舞い散る季節に、二人はエレベーターの箱の中で出会った。視線が絡み合い頬が火照る。胸は高鳴りその姿に釘付けになった。
あの人は誰
あいつは誰なんだ
そんな二人が恋に落ちるまで、ほんの少しだけ時間が必要だった。
薄暗い部屋に、芳醇なウィスキーの香りが漂っていた。まるで琥珀色の記憶のように、香りは彼女の首筋をそっと這い上がり、舌先の温もりと共に肌をくすぐった。彼女の細い指先は、仄かに桜色に染まりながら、彼の逞しい肩甲骨をなぞる。そこには、鍛え上げられた男の輪郭が刻まれ、触れるたびに彼女の胸から小さなため息がこぼれた。
彼の筋肉質な手は、力強くも優しく、彼女の豊満な胸に触れた。指先はまるで命あるもののように、ゆっくりと脇腹を滑り降り、彼女の肌に微かな戦慄を残す。静かな部屋に、彼女の唇から漏れる微かな喘ぎ声が響き、まるで夜の囁きと溶け合うようだった。
「お前が好きだ。俺はお前が好きなんだよ、覚えておけ。」
彼の声は低く、熱を帯びて耳元で繰り返される。その言葉は、まるで呪文のように彼女の心を縛り、互いの脚を絡ませた。絡み合う二人の熱は、全身に滴る汗となり、部屋の空気を重く、甘く変えた。時間は止まり、ただ二人の鼓動だけが、夜の静寂を刻んでいた。
近江隆之介の息使いを感じる。「え、あ。ちょ」「小鳥」「あ」「小鳥」「え」 小鳥の耳たぶをその薄い唇が喰む。心臓が跳ね上がり、そのいつもより低い声色に、背筋がピンと仰け反った。「お、近江さん。危ないです。お湯、沸いてます!」「お、すまん」「何してるんですか!」「何って、抱擁?」「!」チーン 電子レンジが枝豆の存在を知らせた。安堵のため息を吐いた小鳥はその皿を近江隆之介に持たせた。「あ、あっち!あちち」「罰です」「何の罰だよ」「とにかく罰です!」(い、いかん。このまま近江隆之介に押し倒されるのは嫌だぁ!) いくら
近江隆之介の息使いを感じる。「え、あ。ちょ」 「小鳥」 「あ」 「小鳥」 「え」 小鳥の耳たぶをその薄い唇が喰む。心臓が跳ね上がり、そのいつもより低い声色に、背筋がピンと仰け反った。 「お、近江さん。危ないです。お湯、沸いてます!」 「お、すまん」 「何してるんですか!」 「何って、抱擁?」 「!」チーン 電子レンジが枝豆の存在を知らせた。安堵のため息を吐いた小鳥はその皿を近江隆之介に持たせた。 「あ、あっち!あちち」 「罰です」 「何の罰だよ」 「とにかく罰です!」 (い、いかん。このまま近江隆之介に押し倒されるのは嫌だぁ!) いくら
近江隆之介が立ち上がった気配、クロックスが転がる音。バタン。 洗面所の扉の音だろうか、バタン、そして近づく足音。「で、何処?」「藤野さんの向かって右の後ろです」「何」 近江隆之介が息を呑んだ。「それ、です」「マジか。俺じゃん」「そう、です」一瞬の間。「何、これ、盗撮?」「人聞きの悪い事、言わないで下さい。返して下さい」「お、おう」 非常用間仕切りの下、防水加工されたアスファルトの上、広報誌の上に携帯電話を乗せて返却。「これ、偶然映っていたんです」「そ、そか」 動揺が隠せない。「ちなみにこれが今の壁紙です」 非常用間仕切りの下、防水加工されたアスファルトの上に再び広報誌に乗った携帯電話が差し出された。「これ」「デモの日に撮った画像をチェックしていたら、偶然写っていました」「偶然、多すぎだろ」「偶然です!」「狙ったな」「狙ってません!!!」「しっ。声、でけえよ」「あ」チリーーーー とうとうのカミングアウト。 近江隆之介と久我今日子議員との不倫疑惑も晴れ、小鳥の片思いの相手が藤野建議員という誤解も解けた。 久我今日子議員が藤野建議員と密会を繰り返していたのは不貞ではなく、門外不出の資料のコピーを手渡す為だった。「なんだ」「何だ、とは何がですか?」「俺ら、両思いだったんじゃん」 小鳥の頬が恥ずかしさで茹で蛸のように真っ赤になった。この男は小っ恥ずかしい事をペラペラと、どんな顔で口にしているのだろう。「そ、そうだったんですね」「まじかぁ」「はい?」「最高じゃん」「はぁ」「ねぇ」「何ですか」「今から|そっち《302号室》、行って良い?」「い!」 ぎしっと近江隆之介の立ち上がる音。怯む小鳥。「だ、駄目です!」「え」「駄目です!おやすみなさい!」カラカラ、パシッ!じゃっ! 無情にも網戸が閉まり、窓、そしてカーテンが閉じられ、電気まで消えた。「おぉい」 室内から響く全てを拒否するかのような声。「おやすみなさい!」「おぉい、ことりちゃ〜ん」 近江隆之介はベランダの観葉植物の鉢植えを両手で退かして足場を作った。手摺りをギュッと握る。防火用間仕切りから顔を出し覗いてみたが、302号室の中は暗くて何も見えない。「おお〜い」「おやすみなさい!」「ひ、ひでぇ」「おやすみなさ
小鳥が部屋に帰ると玄関ドアに一枚のメモが貼られていた。議員控室にあったメモ用紙なのだろう、製薬会社のロゴが入った愛想の無い白い紙だった。 ドアノブにはコンビニエンスストアの白いポリエチレンの袋に入ったハイボールが二缶。少し温い。『20:15 ベランダで待つ』(果たし状ですか、これ)20:13 冷蔵庫から、近江隆之介と高梨小鳥は一缶目のハイボールを取り出した。小鳥の缶は温かったので、グラスに氷を浮かべてオンザロック。カラカラカラ 同時にカーテンを開け網戸を引く。ベランダにスリッポン、クロックスを置いた音。「よぉ」「はい」 昼までの雨も上がり、夜空には星が輝いている。「あ」「どした」「夏の大三角形」「どれさ」「あれ、あれ。お寺の屋根の上と、卯辰山、あとその天辺」「あぁ、あれか」 そして無言。「飲まねぇの」「近江さんだって」「飲もうぜ、折角買って来たんだし」「う、うん」 プシュ、プルタブを引く。べこんと鳴る凸凹と柔らかいハイボールの缶。カランと乾いた氷の音。「ほれ。乾杯」「何に」「まぁ、色々と?」「はぁ」 救急車のサイレンが寺町大通りから城南大通りへと下ってゆく。夏らしい、パラリラパラリラと賑やかなオートバイのメロディが遠くから聞こえる。あれは一種の季節の風物詩みたいなものだ。「近江さん」「何」「近江さんと久我議員って不倫関係じゃなかったんですね」ブハッと吹き出す音がベランダに響いた。「ま、まだそれ言う?」「だって。秘書の長野さんたちが話していて」「あぁ、それな」「はい」「身内だから優遇されてるんじゃ無いかって言われるの腹立つから大っぴらにしていないだけだし」「そうなんですね」 グラスが汗をかき、雫が滴る。足元に一滴。「あぁ、だからか」「何がですか?」「おまえ、いつも久我議員って言う時、こえぇ顔してたし」「だって。不倫とか、あり得ないし」「ま、そうだわな」「はい」「他の奴に言うなよ」「はい」ジーーーーーージジジジ 表の駐車場で一夏を終える蝉が何処かで転がりまわっている。「なぁ」「はい」「好きって事は、付き合ってくれんの?」(藤野はどうしたよ、藤野は)「え、と」「付き合ってくれんの?」「は、はい」「男女的な?」「生々しい表現はやめて下さい!」「へいへい。お
雨が降っている。半円形のガラスの壁に水滴が付いては流れ、銀色に光る鏡のオブジェにどんよりとした鈍色の雲、市役所が幾つもの角度を見せて映っている。 小鳥は一列にずらりと並んだうさぎの耳の背もたれの椅子に座り、職員出入口をぼんやりと眺めていた。携帯電話を見る、約束の時間ちょうど。職員玄関のアルミスチールの扉が開き、地下駐車場からの横断歩道、次に21世紀美術館へ渡る横断歩道で左右を確認して近江隆之介が濡れたスーツの肩の雨を手で払いながら自動ドアを潜った。「よ、お待たせ」「ううん、さっき来たところ」「そうか」 小鳥から一つ離れたうさぎの耳に座る。なんとなく無言。思い付いたように同時に あ と言葉を発してしまい、どうぞどうぞと譲り合った。「にしても、驚いたな」「どれがですか?」「どれって、久我が田辺議員と繋がっていたって事だよ」「しっ、声が大きいですよ」「ヤベェ?」「やばいです」 小鳥の視線がじっとりと湿り気を帯びて目が座っている。「それよりも驚きました」「な?」「な、じゃないです」「は?」「久我議員が近江さんのお姉さんだとは、びっくりです」「声、でけえよ」「不倫じゃなかったんですね」「信じてたの」「信じますよ、そりゃ」 近江隆之介の顔がうんざりした面持ちから、晴れやかな表情にコロリと変化した。「驚いたのはこっちだよ」「何がですか?」「何がって」 ニヤニヤと緩んだ口元から、あの事だと察した小鳥は顔を真っ赤にしていきなり椅子から立ち上がった。「うお、いきなりなんだよ」「じゃ、じゃあ!時間なので戻ります!」「まだはえぇじゃん」「さよなら!」「え」「じゃ!」「おい、小鳥、お〜い小鳥ちゃ〜ん。」 小鳥は振り向きもせず、雨でぐちゃぐちゃになった芝生を横断し、道路で左右安全確認をして市役所の裏出入り口へと走った。「おお〜い」
金沢市役所7階、議会事務局から少し廊下を進んだ一番端の自主党議員控え室に国主党議員、久我今日子が、栗色の巻き毛を掻き上げながら小鳥のスチールデスクに寄り掛かって微笑んでいる。違和感。 高梨小鳥は思わず廊下に戻って見上げたが、確かに黒地に白、自主党の三文字。また、驚いたのは小鳥だけでは無い。 近江隆之介もあり得ない光景に驚き、思わず口走ってしまった。「ね、姉ちゃん」(ねぇちゃん!?) 小鳥は背後を振り返り我が耳を疑った。近江隆之介は久我今日子を見て『姉ちゃん』と呼んだ。ええと。ねえちゃん、姉ちゃん。あ、そうか、親しみを込めて姉ちゃんとか。(いやいやいや、いや、議員を姉ちゃんとか無いわーー!) 小鳥も近江隆之介も色々と驚きの余り、その場所で身動きが取れずにいた。すると応接ソファに座っていた狸の田辺議員が手招きをした。「小鳥くん、近江くんも中に入って。藤野くん、鍵」「はい」「お、お邪魔、します」ギィ カチャン 議員控え室の重厚な扉が閉まり、鍵の音が続いた。立ち尽くす二人を尻目に、藤野議員も久我議員も応接ソファに腰を掛けた。「あ、あの。お茶」「いや、良いよ。ちょっとこっちに来なさい」 田辺議員が二人に手元にあったコピー用紙を手渡した。これには、見覚えがある。「これ」「そうだよ」 それは小鳥が、門外不出の重要なバインダーから付箋が付いた資料を抜き出して連日
Comments